第33話   庄内竿は文化財となり得るか?   平成16年11月21日  

昭和27年に山形縣の文化財保護条例が、新しくなり施行された。その時酒田の本間美術館の館長でもあり刀剣鑑定家として知られ尚且つ庄内有数の文化人、実業家であった本間祐介氏は山形の独自の文化財があってもしかるべしと寉岡の小雑誌「羽陽文化」第十五号の中で提唱した。

国で指定した重要文化財をそのまま準ずる形での県の指定文化財に指定するのは簡単だが、それでは余りにも安易過ぎるのではあるまいか。他県には無くとも山形県独自のものがあってもしかるべきでは無いのかとの見解は、非常に先見の目を持っていたと思える。地方にあって山形県内だけの有識者のみならず、もっともっと広い目を持った中央の有識者を顧問、嘱託としてまじえた形の文化財の審査会の在り方を考えていた。

陶山運平は1800年代初めの頃、当然師匠が居て竿作りを伝承したものと考えられるが、以前からあった苦竹に独自の工夫を重ねて作った庄内竿を完成させたと云われている。そんな彼の作った三間五尺(約6.1m)、元径六分(約1.8cm)の竿が陶山家に今も残されている。その竿にじかに触れた本間祐介氏の言に従えば、材料は元より竹質の素直さ、形姿の美しさ、優れた伸ばしの技術と作者の人格を反映して伸々と豊かに、気韻飽くまでも高く、所有「時代の上がる」の感に打たれるもの、遠く平安の名刀に接する心地がすると述べている。ついで弓作りの技術をもって酒井家のお手本竿を作った丹羽庄右衛門、弓師の平野勘兵衛の両名、少し時代を経て陶山運平のただ一人の弟子上林義勝、陶山運平より地バリを継承した中村吉次明治、大正期に活躍、大正昭和の山内善作と竿作りの名人を輩出し、彼等は数多くの名竿を作った。現在それらの名竿も時代を経るに従って博物館等に寄付されたもの以外の大半は、名竿の価値を知らぬ家族の手により処分され残っているものは僅かになりつつある。事実昭和20年代の後半でさえ根上悟朗氏の「随想 庄内竿」の中であたら名竿が、畑のサヤエンドウ豆の添え木になっていたので、持ち主の家族の者に話をして新しい添え木と交換に貰って来たと云う逸話が出ている。

山形県の独自の文化財は、他の県にあって無視されるようなものでも一向に差し支えないのではないかと云う考え方には大いに賛成、共感出来るものがある。各県独自の文化があっての県の文化財なのであるからである。それが実用品のものであっても、後世代の人にとっては必ずや文化財的な物の価値が出て来るものであると信ずる一人である。

その昔職人が作った文箱、文机、硯箱、皿などの実用品は、作者は決して文化財を造ろうと思って作った訳ではない。ただ、良いものを造ろうと一生懸命作った結果、後世の人がその実用品の中に美を見つけて美術品のひとつにしただけなのだ。

本来庄内竿にしても実用品であったが、竿の形や根の形状だけでなく本来虫よけの為に煤により燻されたもので独特の色が付いている。それらをすべて含めて美を見出し高邁な釣り人は勿論の事、粋人や好事家の間で珍重するようになって来た。それら実用品を美術品の域にまで引き上げたのは明治、大正の名人上林義勝であったと云われている。そんな竿作りの職人上林義勝には、寉岡の荒興屋の五十嵐彌市郎という庄内竿の大ファンの好事家がおり、金に任せて上林義勝の竿だけでも130本という竿をコレクションしていたという。寉岡には実用品の竿という訳でもなく、ただ竿を眺めて満足しているというそんな人物も数多く居たのである。そんな彼は高級将棋盤の材料となる榧(カヤ)の木で作られた榧風呂(カヤブロ)と長さ四間一尺(7.5m)、元径約2cmの竿を引き換えに上林義勝より手に入れた。その話が元で後世名竿「榧風呂」と云われる所以(ゆえん)となった竿である。檜(ヒノキ)でこさえたフロ以上の価値のある風呂との交換は当時でも値段の付けようの無いものであったであろうと思われる。実用品として良い竿を求める釣り人だけではなく、そんな金に糸目をつけぬ好事家、粋な人達も居た事が、竿作りの職人にとっては安心して、懸命に良い竿作りに励める環境に繋がって行った事であろう。そんな五十嵐コレクションも代を重ねるに従い、その多くはその価値が分からず安値で四散してしまったと伝えられている。

庄内の人達にとって庄内竿は、庄内釣りと同様に文化財とならなくともそれ以上の価値があると思っている。がしかし、年を経るごとに価値の分からぬ家族により、手入れもままならぬ事もあり、処分の憂き目にあっている事は非常に残念な事としか思えない。

生前本間祐介氏の提唱した庄内の釣り文化の一端である庄内竿を後世に残していくのは、生存している者の責務ではなかろうか?実業界から退かれた後、長い間美術館の館長としての本間祐介氏は、彼が戦後復興させた本間物産の倒産を見、その後失われ往く庄内竿の名竿の収集に心掛けていたそうであるが志半ばで中々なせぬまま他界なされた。

寉岡の小雑誌「羽陽文化」第十五号に提唱してより、早五十年、竿に傷を付けるのが嫌で銘を彫らなかった大半の名竿を鑑定出来る人は殆んど残っては居ない。ただ、博物館に寄贈されたものを除いては・・・・。残念ではあるが、それが現実である。